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80歳を越えた。身体が動かなくってきた。しかし思いは自由に羽ばたく。世界を駆け巡る。

あの日から2年


気仙沼市街地に押し寄せる津波 - YouTube


今日は2013年3月11日。東日本大震災の日から2年が過ぎ去った。

私は自分の無力に打ちひしがれている。体調が良ければ、大勢の人がそうしたように被災地におもむき、自分のできることを少しでも手伝いたかった。
今日のこの日に、これからも続く被災者の皆さんの苦しみを忘れないように、何かを書き留めておきたかったが、何も文字にすることができない。
考えているうちに夕方になってしまった。

夕刊に追悼式の記事が出ている。 政府主催の追悼式が国立劇場で開かれた。 岩手、宮城、福島各県の犠牲者遺族など約1200人が参列した。 そして3県の遺族代表の言葉に目が止まった。 記憶にとどめておくために、この人たちの言葉を噛み締めていこうと思った。 遺族代表の3人の方の中から、おひとりの言葉をご紹介したい。
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宮城県遺族代表の言葉

つらい日々がありました。 大切な家族を亡くした私たちにとって、この2年という歳月は、一日一日を生きることがこんなにも大変なことだったのかと、過ぎ行く時間の重さを感じ続けた2年でした。  ― 自分は何のために生きているのだろう。  ― 
あの人の生きた日々は、幸せだったろうか。 何度も同じ疑問が浮かんでは、そのたびに息が詰まり、答えを出せずにいました。 それでも、一つだけ確かなことは、あなたがいた私の人生は、幸せだったということです。 どこにいても、何をするときでも、妻の由里子と息子の直人への思いは、片時も離れることはありませんでした。 毎日早起きしてお弁当を用意してくれたり、息子の離乳食を一つ一つ丁寧に作ってくれたり、そんな妻に喜んでもらいたくて、休みの日に少しだけ早起きして、お掃除をしたこともありました。 取り合うように家事をやっていたことが、懐かしく思い出されます。 毎日、笑顔と、「ありがとう」の言葉が絶えることはありませんでした。 毎日が幸せでした。 この悲しみに区切りはなく、終わりもありませんが、弱くて未熟な自分が今こうしていられるのも、あの日から今日までに関わった全ての方々に支えてもらったからこそだと、心から思います。 妻の由里子はいつまでも尊敬する人であり、私の一番の目標です。 直人と一緒に、きっといつまでも見ていてくれると思います。 自分に残されたこれからの年月をかけて、愛する2人の人生の続きを、私が歩んで行こうと思います。 あの日とともに深く心に刻まれた、多くの尊い命を、私は決して忘れません。 亡くなられた方々の安息を、ひたすら祈念し、追悼の言葉と致します。

宮城県代表 西城卓哉

Tohokukantodaishinsaiwatari300

宮城県亘理町