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80歳を越えた。身体が動かなくってきた。しかし思いは自由に羽ばたく。世界を駆け巡る。

大詔奉戴日

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 今日は12月8日。

 私の小学生時代は、大詔奉戴日と呼ばれていた。
1941年12月8日、日本軍がハワイ真珠湾のアメリカ艦隊を攻撃し、太平洋戦争が始まった日だ。

 われわれ「国民学校」に通う「少国民」は、それが何を意味するのか、これから一体どうなるのか、全くわからなかった。8才の子供には理解できない。開戦からしばらくは、勝った勝ったと景気の良い話ばかりだった。
国民学校の先生たちも、日本は必ず勝つと言っていた。


 しかし、日本の敗色が、小学生にわかるまでには、そんなに時間がかからなかった。私が小学5、6年生頃になると、家庭では食べ物に不自由するようになった。当時、食料はすべて配給制だったが、配給されるものは、まずく、そして量は少ない。食べ物は次第に無くなっていく。ひもじい思いがひどくなっていく。親は着物や装飾品を持って地方の農家に行き、コメや野菜と交換してもらうようになった。
モーニングを着てシルクハットをかぶったカカシの写真が新聞に載った。


 私の住んでいた山の中の村には、憲兵が常駐するようになった。「ケンペイ」は、子供にとってまたとない興味と畏怖の対象だった。何のために憲兵がいたのか。

 小学生の頃は、天気予報がなかった。と言うより禁止されていた。敵国語だから英語も使うな、勉強するな、と小学校では言われた。野球用語もすべて変な日本語に直された。
 横須賀線では、港の近くになると、一斉に海側の窓が覆い隠された。
木製のブラインドで見えなくした。横須賀港は海軍の基地、軍港だったからだ。

 家庭では、敵機襲来の警戒警報がでると、電灯の傘に黒い布を巻いて、上に光がもれないようにするよう強制された。アメリカ空軍機から地上の施設がわかるからという、噴飯ものの理由からだった。 戦後わかったことだが、アメリカ軍はすでに日本の主要な都市や地方の詳細な地図を作っていた。


 この数日の「機密法」をめぐる国会の騒ぎで、またあの日々が来るのではないかと心配だ。今の国会議員のほとんどは太平洋戦争を体験していない。あの暗黒の時代を知らない。

 日本はこれからどうなるのだろう。